頑張る人間は、怠け者だ。

頑張るとは、なんだろうか。

出した成果?
流した汗の量?
使った時間の量?

一般的には、流した汗や使った時間の多い人が頑張り屋さん、と言われていると思う。人より多く行動し、時間を使い、日々ヘトヘトになるまで頑張る。努力をしてそうに見える。

ただ、本当にそうなのだろうか。

そういう人たちは、労力や多くの時間を費やすことが、「何か」と比較して楽だと感じているからやっているのではないか?

では、「何か」とは何か。

ストレスのあることを行うこと、だ。

今やっている行動をいったん捨ててゼロから、頭がちぎれそうになるまで考える。自分より明らかにステージの高い人に会い、厳しいけど本質的なアドバイスを聞き、受け入れて、行動を変える。部下から、自分の心臓をえぐられるような、本音を聞き出し、受け入れる。とにかく、情報を取る。死ぬほど勉強する。

こういうことは、その瞬間瞬間はとても大きなストレスを伴う。できれば、やりたくない。いつも通りに出社して、いつもと同じ席でいつもと同じ方法論でいつもと同じ仕事をやる方が、そのときそのときはどれだけ楽だろう。

大きなストレスから逃げて、時間を使ってヘトヘトになるまで量を頑張ることと、量はたいしたことないが大きなストレスを感じることを積極的に行うことは、どちらが頑張っていることなのだろうか。

そして・・もっとも重要なこと。

やりたくない、ということは本能的に日常の選択肢から外している、ということ。普段見えていない選択肢だ。だからこそ、そこに解決の糸口が見える可能性は、高い。

自分がストレスを感じることほど、積極的にやるべきだ。

 

 

それでも地球は動いている。

新しい会社を、登記した。

全く新しいことをやる会社、世の中を変える会社だ。

 

なんとなく、一般論として言われている事に正解などありはしないのではないか、とずっと思ってきた。教科書に書いてあることは大体間違っていると思ってきた。一般論というのはみな宗教に思えた。信じれるのは科学だった。結果的に、既存からはみ出た少数派の意見や、自分の中から生み出た考えを大切にしていた。

大切にしているだけだった。

確信の持てる何かの解を持っているわけではないし、持っていたとしても変えていけるだけの実力も持ち合わせていなかった。ただただ、思っているだけだった。酒の席で空虚に叫ぶだけだった。「変えたい」という想いと言葉だけがあった。評論家のように話す自分に、とても違和感があった。

一つの解に出会ったのが、2年前だった。

たまたま、だ。解を探すため猛勉強したわけでも、死ぬほど考えたわけでも、苦労したわけでもない。ただ、たまたま出会った。出会ってしまったんだからしょうがない。この解を世の中に広めていくことが、使命なんだろうと思った。実現すれば、社会は必ず良くなる。それは具体的な成果という意味だけではなく、閉塞した社会に風穴があく、という大きな意味がある。既に風穴はいくつかあいてきている。

 

そして今、一緒に変えていける仲間、資源、立場、自信を手に入れた。

今までの人生は、全て助走だった。

変えていくなら、今しかない。

天動説を、地動説に変えていく。宗教を、科学に変えていく。

気分はガリレオだ。

 

愛する人は、いない方が強い。

愛とは何なのだろうか。

・・・という問いの答えは分からないが、愛する人がいると実現される状況、というのがある。

①受け入れてくれる。あるがままの、そのままの自分を受け入れてくれる。社会的価値を生まなくても、ぐうたらでも、何もしなくても、最終的には受け入れてくれる。

②共有できる。愛する人は、喜怒哀楽を共有できる。他人には言えないつらさや、言いたくてたまらない喜びを共有できる。

③頑張るモチベーションになる。愛する人のために仕事を頑張れる。お金を稼ごうと思う。

全て、自分を弱くする要因にこそなれど、成長を促す要因にはならないと思う。

受け入れてくれる人が一人もいなければ、具体的な社会的価値を生まないと誰にも受け入れてもらえない。受け入れてもらえないと生きていけない。そのため、死に物狂いで頑張り、そして頑張り続けるだろう。共有する人がいなければ、苦しいことの全てを一人で受け止め、自己消化しなければいけない。良く「器」と言うが、その「器」を大きくし、消化していく必要に迫られる。間違いなく精神的に強くなる。「愛する人のために」と頑張るモチベーションは、有る程度の年収を稼ぐようになった段階で尽きるだろう。それ以降は逆に、それ以上の頑張りを阻害することだろう。

愛する人は全て捨てろ、と言っているわけではない。

確かに愛する家族、恋人、友人など、がいると幸せなんだろうと思う。充足感をもたらし、幸福感をもたらし、「このために生きている」と思わせるのだろう。実際、人間に一番の多幸感をもたらすエンドルフィンは、他人との強い繋がりを感じたときに多く分泌される。

ただ大事なのは、愛する人が周りにいることで、引き換えに捨てているものもある、ということだ。「自分を強くする環境」は愛する人がいることによって阻害されている。そこから目をそむけてはいけないと思う。

 

人間は、ロボットである。

『人はロボットじゃない、生き物なんだ』『こころがあるんだ。だから素晴らしいんだ・・・』

人はロボットじゃない、と言って悪い気をする人はいないし、それを否定する人はいなさそうだ。逆にわれわれは人間だから『人間はロボットだ!』って言われるとみんなが嫌な気分になる。

なんでなんだろうか。人間とロボットはどこが違うのだろうか。そう言っている人たちは、人間と機械の違いを明確に言えるのだろうか。ただ、『人間だってロボットなのだ』ということを認めるのが恐いからじゃないか。人間って、そんなに特別なものなのだろうか。何が特別なのだろうか。

理由として語られる一つに、『感情』がある。感情があり、感情は機械的に外部からコントロールできないからロボットではない、という理屈だ。

感情はコントロールできない・・・?いや、感情は明確にコントロールできるんじゃないか。

うつになれば、抗うつ剤を飲めば収まる。テンションが低くても麻薬を吸えば、ハイテンションになる。ガッツポーズを取ればアドレナリンが出て気合いが漲る。モチベーションが上がらなくても、窓を開け、好きな音楽を聞き、いい椅子に座ればドーパミンが出てモチベーションが上がる。よくよく考えれば、外部からの入力によって、感情というのは確実にコントロールできるはずだ。

 

 

閑話休題。

 

 

 

人はなぜ事故を起こすのかを、機械的に捉えて考えてみたい。

事故は、人へのプログラミングのミスが原因で起こる。

人は獲物を捉えて食べていた。獲物は有限であり、有限なものを得るためには、誰よりも早くありつけないと生き残れない。誰よりも早く、誰よりも早く・・・という生存競争に基づく習性がプログラムされており、それが交通社会での衝動的な運転を引き起こし事故に繋がっている。

人のエネルギーは、獲物が現れたときに一気に使わなければいけない。つまり、無駄に使う事はできない。普段は極力、集中力・注意力を使いたくない。車の運転は、普段は安全であるため、この集中力・注意力を使わせないプログラムが働き、それによる反応の遅れが事故を引き起こす。

要は、狩猟生活時代の本能のプログラムが今も残っており、それが交通事故を引き起こした。狩猟時代を経ずに最初から自動車社会があれば交通事故というのは激減しているのだろう。それが分かれば、解決策は、根本のプログラムを書き換えるのか、根本のプログラムを前提として対処的なプログラムを付け足し対処するのか。対処は明確となる。

上は一例だが、人を『ロボット』として器質的に見ることで見えることは多い。そしてそれが結果的に人間の進化や問題の解決に繋がる事は多いのではないか。人間はロボットである、と言いたいわけではない。いったん人間をロボットとして見てみたら発見があるはず、ということだ。

『人間は特別である』というプライドが、思考を停止させている。

そんなプライドは、いったん捨ててみよう。

 

全てが、一本の線に。

何かを具体的に目指していたかというとそういうわけじゃない。
ビジョンも目標も戦略も戦術もないに等しかった。
日々起こる事を、哲学に基づいて一つ一つこなしていった。

すると少しずつ、一つのことと一つのことが繋がっていった。
線ができた。
線はいくつもでき、そしてまた点が増えた。
そしてまた線ができた。

あるとき、線が多すぎて見えなくなってきた。
一つ一つを見ないようにした。

ちょっと高いところに行って眺めてみた。すると、数が多く入り組んで交差していた線の集合は、大きな太い一本の線である事が見えてきた。

本当に多くの人に、大きく助けられた。取引先、友人、知人、父、母、師匠、そして何より職員のみんな。出来上がった太い線は、周囲に導かれた結果、とも言える。

一貫性の無いと思っていた自分の判断が、どうやら一貫性のあるものだった。その一つ一つの判断が、この太くて大きな線を生んだ。とも言える。

スローガン、ビジョン、ミッション、戦略、戦術、ヒト、モノ、カネ、情報。
全てが、明確になってきた。考えを汲みあげた、わけじゃない。、自然に、浮かび上がってきた。あるいはどこかから舞い降りて来た。

これをやることに、人生をかけなければいけない、と思った。
この事を成すことが、生まれて来た意味だと心から思えた。
無から有は生まれない。ビジョンというのは持とうと思っても持てるものじゃないが、何かを真剣にやっているうちに、本当に見えてくるもんだ。

見えてきたら、あとは実行するだけだ。来年は、実行するだけの年だ。色々な障害を突き抜け進むだけだ。乗り越えるんじゃない、突き抜ける。だから来年のスローガンは、これにしよう。

『早く、鋭く、力強く。』


スピード違反して、鋭角に、力強く、突っ込んでいこう。

安全運転は、するな。

 

タイトルを見て、気でも狂ったか!?と思われるかもしれない。

 

このセリフはよく言われるのだが、本当にそうなのかどうかはいったん置いておき、「理性」と「本能」という言葉を考えてみたい。

「理性」というのは、後天的に人間が組織で生きていくために獲得する、行動を制御する機能だ。赤ちゃんは感情の赴くまま行動するが、社会の迷惑になったり、人に不快感を与える行動をすると怒られ、その行動をしなくなる。いわゆる「学習」で、それによって獲得されるのが「理性」だ。「○○すべき」「○○してはいけない」という語尾で語られることが多い。

「本能」というのは、先天的に人間が有している、生きていくために必要な機能だ。自分や自分の子孫が生きていくために必要だから、食べ物を食べるし、自己主張するし、SEXをするし、お金儲けをするし、出る杭を打つ。「○○したい」という語尾で語られる事が多い。

最近ふと、「どっちが大事なんだろう??」と迷うシーンが多い。理性的に振る舞うのがいいのか、本能をむき出しにした方がいいのか。

当然いい大人になれば、理性的であるという事はどういう事かは分かる。場面場面によって違うだろうが、「取るべき行動」というのは有る程度規定されている。いわゆる空気を読む、TPOをわきまえるというやつか。目上の人の言う事にはうなずく、否定をしない、自分の主張は押さえる。人のグラスが乾けば、真っ先につぎにいく。ルールには絶対従う。

理性的に行動すれば、たいていは軋轢が起きないし、周囲から認められる。本能の赴くままに行動すれば、他者の本能を刺激し、不快感を生み、軋轢を生む。衝突を生む。

一方、本能を伴う行動は、やる気がみなぎり、圧倒的な行動力が湧き出て、集中力が持続し、脳が働き、クリエーティブなアイデアが出る。言葉に情熱が宿り、多くの人の心を動かす。理性的な行動には、魂が宿らない。パワーが出ない。多くの人がやっているため、やった結果、埋没する。

場面場面によって答えは違うのだろうし、2者択一ではないのかもしれない。

ただ言いたいのは、「全てにおいて、理性によって本能をコントロールするのが正しい」みたいな思想は、今の社会においては断じて違う、という事だ。

良く、安全運転をしろ、と言われる。というか、仕事柄、良く言っている。

人生における安全運転とは、理性的に生きることなのだと思う。法規を守り、周囲の状況を察し、空気を読み、「求められる事」をする。ただ、それは周囲と同じスピードで生きるという事と同義。当に何かを成し遂げたいのであれば、時にはスピード違反をして、一時停止無視をして、突っ走る事も必要なのではないか。それにより他者に先んずる事ができる。目的地に早く着くことができる。少しは危険を犯していいんじゃないか。誰も死ぬわけじゃないし。

一方、運転における安全運転(変な表現だが)は、絶対に行った方が良い。ものすごいスピードを出し、一時停止無視をして運転しても、目的地への到着時刻はたかだか30分のうち1分程度しか変わらない。メリットは事実上、ないに等しい。あるのは、錯覚だ。そして危険を犯すと、自分が死んでしまう、もしくは他人を死にいたらしめてしまう、大きなリスクを孕んでいる。

 

『事故が減っても、保険料が高い!』ワケ。

前回に続いて、保険料の内容について話してみたいと思います。

最近、交通事故は減っています。

-全国の交通事故件数、2005年は933828件、2010年は725773件。
-負傷者数は2005年は1098199人、2010年は896208人。
-死亡者数は2005年は6352人、2010年は4863人。

いい事ですね。

この調子でどんどん事故が減れば、人は助かるし、企業は損失がなくなる。めでたしめでたし♪

と・・・・待てよ・・・・・
じゃあなんで、企業様から事故防止研修の依頼が多くなるんだ・・・?
とふと思い、色々調べてみました。すると、意外なことが分かりました。

なんと。

『事故が減っているのに、支払い保険料が上がっている!!』

のです。

 

グラフの通り、企業が事故を起こしたときに保険会社が企業に支払う「保険金」の総額ですが、2005年は2兆870億円に対して、2010年は2兆2300億円になる。(自賠責・再保険金額は除く)「保険金」が増えているということは即ち企業が保険会社に年間支払っている「保険料」も増えているということになります。

-何でこんなことが起こっているのでしょうか?

調べたところ、考えられる理由は2つありそうです。

■不景気による収入減で、交通事故の被害者が保険料をより高い金額で長期間引き出そうと画策してくるようになった。(要はごくごく軽度のムチウチで月10万くらい年間引き出すというような)

■その具体的方法として、弁護士を活用し交渉してくるようになった。過払い金請求系の案件が一区切りしたため、弁護士は仕事を外に求めている。成功報酬でやることにより、被害者は持ちだしなく弁護士に依頼することができる。(⇒弁護士事務所のホームページとか見に行ったら明らかですよね・・・)

他にも理由はあるかもしれませんが、保険会社に聞いたところ、これらの理由はダイレクトに影響あるもののようです。

交通事故は減っているのに、事故対策に生じるコストやリスクは確実に大きくなっている。

世の中、難しいです・・・・・

もしあなたが加害者になったら。もしあなたが被害者になったら。

交通事故は減らせますし、失くせます。これは自信を持って言えます。ただ、今日は敢えて『もし、あなたが交通事故にあったら・・・?』そんなときの話をしようと思います。

保険会社のCMを目にすることって、とても多いと思います。有名タレントを起用し、視聴率の高い番組にCMを出し、クリーンなイメージを訴求している。この会社の保険に入っていれば、例え何かが起きた際も、自分を必ず守ってくれる。(極端に言うと)何が起きても安心。そう感じさせます。

実際、こんな声は多いのではないでしょうか。

『全くそのとおり!誤って事故を起こし被害者はムチウチになったが、被害者との交渉全て保険会社がやって示談を引き出し、面倒なことは一切なかった。加えて、損害額をかなり押さえてくれたので、保険料も大して上がらずに済んだ。いやあ、良かった良かった!!』

めでたしめでたし・・・・って、本当にそうでしょうか。被害者との交渉なし?損害額が抑えられた?・・・これって、加害者(=自分)にとってはいい事なのかもしれないが・・・

実態はこうなのかも。

■そもそも、弁護士法72条によって、弁護士以外は法律事務を行ってはならないとあるが、保険会社は日弁連と協定し、一定の条件のもとに被害者と交渉する示談代行権を持っている。つまり、「特権」を持っている。

■被害者は被害を受けるケースが少ないため騙されやすいが、加害者側の保険会社は特権を活かし、百戦錬磨。損害額を引き下げるあらゆる手段を知っている。

■具体的には、医療費、逸失利益、休業損害などの仕組みを熟知している。ポイントは『症状固定』という状態。これは”これ以上治療を続けても具体的に回復する余地はない”という状態であり、この状態を医者と交渉し早期に引き出すことで、医療費や休業損害を安くしている。

■加害者を意図的に被害者に会わせないことで、加害者が被害者に同情し感情的になり「治療費は全面的に面倒見ます!」みたいな事を言うのを防ぐ。

■後遺障害の適用基準は『自賠責保険』の基準に準ずるが、その基準は損害保険料率算出機構というところが作成しており、その機構の会員は保険会社である。保険会社は当然、自社の利益を考え、後遺障害の適用を極力抑えようとする。

・・・etc。

何も、保険会社が悪いと言っているわけではない。ただ、保険会社も株式会社であるため、利益を追求する機構であるという事、誰の利益かというと、 「お客様(=上の例でいう加害者)』と『自分達』の利益だ、という事だ。そしてそのためのあらゆる知識を整備し体制を整えている、という事。保険は自分を守る防具でもあるが、交通事故加害者(=加入者)にとっては相手を攻撃する武器となり、被害者にとっては自分が攻撃される凶器となる。

大事なのは、もし自分が加害者になったとき、被害者になったとき、それを忘れない事だ。

参考:「ブラック・トライアングル」http://amzn.to/t79pta

「車間距離が大きいと、渋滞が起きる」のウソ。

渋滞はキライですか?

・・・・・・好き、という方には、今までお会いしたことがない。渋滞に出くわすと、時間には遅れるし、車の中はヒマだし、理由なくイライラするし、音楽は2巡目だし、トイレに行きたいし、仕事の電話はバンバンかかってくる・・・・・いいことない。ちなみに、道路での交通渋滞による経済損失は、年間およそ12兆円と言われている。

・・・ただ、なんで渋滞が起きるかって、あまり考えた事がない。

交通社会に携わる者として、「なんで渋滞って起きるのだろう・・・?」と漠然と考えていたところ、素晴らしい本に出会った。

東京大学の西成教授が書いた「渋滞学」http://amzn.to/pngvOyという本。
概要は次のようになる。

①移動体は「ニュートン粒子」「非ニュートン粒子(=自己駆動粒子)」に分かれる。「ニュートン粒子」は、水や空気、ボールなど、ニュートン力学によって動いているもの。「非ニュートン粒子」は、ヒトや車など、自分の意志を持ち動くもの、「慣性の法則」「作用=反作用の法則」「運動の法則」などのニュートン力学だけで動きを説明できない。たとえば、車は「衝突を避けよう」という社会心理学的な力が働いている。

②渋滞は、「サグ部」と呼ばれる、100m進むと1m上昇しているくらいのゆるやかな坂道で34%と、もっとも多く発生している。

③ゆるやかな上り坂に車が差しかかると、運転手は上り坂だとは気がつかずにアクセルはそのまま走ろうとするので、スピードが落ちてくる。ある程度スピードが落ちると再度加速するのだが、時既に遅く、後続車はブレーキを踏みだし、それが後ろの車に波及してさらにブレーキを踏ませ、これが渋滞となる。

④ただし、車間距離を充分にとっていれば、前方を走る車の減速は後続車にまったく影響を及ぼさない。

⑤時速70km程度、車間距離40m以下が「メタ安定」となり、これ以上交通流量が増えると渋滞は発生する。

車間距離が大きくなると、1台あたりの占有面積が多くなり、渋滞を引き起こす、と一般的には教えられてきていると思う。物理学の観点だけで物事を視ると、そうなる。

しかし、事実は、その逆である。

車間距離が大きいと、渋滞は起きにくいのだ。そして当然の事ながら、事故リスクの大幅な削減にも繋がる。メリットばかりだ。

みんな、もっと車間距離を取ろう。

『判断力』は高めるな。

人間、『判断力』って大事ですよね。ヒトって、ひとつひとつ、『判断』して物事を決めてる。その判断する力を高めれば、だいたいの事はうまくいく。

成功する人というのは、判断力が高い。

逆に言うと、判断力が高ければ、必ず成功する。

そういや、ほとんどのビジネスマンは、、『判断』するために、情報を収集して、考え方(=フレームワーク)を勉強している。そうだ、俺も、判断力を高めよう・・・・・・・って、本当にそれでいいのでしょうか!?

ちょっと、立ち止まって考えてみたいと思います。

『判断』とは・・・物事を理解して、自分の考えを定めること(weblio辞書)、とのことです。たとえば道に硬貨が落ちているのを見て拾う動作は、目から入った情報が大脳新皮質まで送られた後で、意識的な動作として四肢などに伝えられる。一方、朝、「おはよう」と挨拶するような、習慣でなんとなくやっている行為は、情報は大脳皮質まで送られるものの、行動の中枢はそれ以前にあるので、大脳皮質を通るよりも短い経路で情報が伝達され、より速い行動となっている。

前者を『判断』とし、後者を『習慣』と定義するとします。(学術的にいうともっともっと緻密な定義はありそうですが、ここでは省略します)では、人間、1日にいくつのことを判断しているか。

-普段の何気ない会話は?

-ゴルフのスイングは?

-朝、歯を磨くのは?

-今朝の「おはよう」の挨拶は?

-今、マウスを動かしてる手の動きは?


一つ一つの行動をみていくと、多くは『判断』ではなく『習慣』だということがわかります。計算すると、一日のうち、数万個以上の『習慣』で行動しているということになる。『判断』しているのは、せいぜい数十個くらいのものではないでしょうか。ということは、『判断』より『習慣』の方が実は重要、もっと言うと『判断力』より『習慣力(良い習慣を身につける事)』の方が重要だ、という見方もあると思います。

運転行動も同様のことが言えるのではないでしょうか。

確かに、ポイントポイントでは状況をしっかり『判断』し危険を予測して減速する、一時停止する、というようなことは重要だと思います。ただし、その裏で習慣的に行われている膨大な運転行動があることを忘れてはいけない。

そして、一番大事なのは・・・運転行動において、『判断』には心理的・時間的余裕が必要であること。判断する時間を確保する習慣を身につけていないと、判断力を活かす場面すらありません。車間距離がぎっちり詰まった余裕の無い状態で、周囲を見渡し、状況を『判断』することは、極めて難しい。

運転時に大事なのは、『習慣力』ありきでの『判断力』、ではないでしょうか。